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2008.08/10 [Sun]
名医の条件
あねきと兵庫医科大学病院に着いた。
受付で待つこと5分、○子先生は急いだ足取りで到着した。
威厳のある端正な顔立ちの方だった。
別室に案内されると、早速シャーカステンの照明が点けられた。
今の状況を説明し、セカンドオピニオン依頼書とレントゲン写真を手渡す。
「早速、診ましょうか?」
主治医のセカンドオピニオン依頼書を開いて、
先生は主治医の診断書を黙々と読み始めた。
その後、レントゲン写真を診断し始めた。
「先生の意見はどうでしょうか。」
「そうですねぇ。 これだと・・・、
残念ながら、2ヶ月生きれたら大ラッキーといったところですかね……。」
「やはり手術は不可能なんでしょうか。」
「これだけ広がってたら無理だねぇ。」
「現在、抗がん剤TS-1による投与をしてもらってますが、
あまり効果が出ていないんです。
抗がん剤シスプラチンとの併用で効果が上がると聞いていますので、
僕達としては、元気な今のうちに、
早くシスプラチンの投与を始めてほしいと思ってるんですが。
主治医が許可してくれないんです。」
「今、使っている抗がん剤はTS-1ですか。
TS-1は副作用は少ないし、胃がんでは一番奏功率が高い抗がん剤ですからね。
シスプラチンを加えるとかなりしんどいですよ。
体力を落として亡くなってしまう場合も少なくない。
しんどい思いをするのは君達じゃない、お母さんなんだからね。
数%の可能性でがんばれ、がんばれと言っても、
お母さんは苦しむだけだと思うからねぇ。
そんな死ぬような思いをしてもほとんど生きれる時間は変わらないし。
今のままで残りの時間を一緒に大切に過ごしてあげたほうが、
お母さんにとっても幸せじゃないかなぁ。」
そう言われたとき、
毎日苦しみながらも“これを飲んだら良くなる”と信じて
抗がん剤を飲んでいるおかんの姿を思い出すと、涙が頬をつたった。
あねきと二人、涙が止まらなかった。
予想していた現実を目の当たりにして、絶望感が隠せなかった。
「ワクチンはどうなんでしょうか。
今の病院では許可されてませんが、可能性があるなら試したいんです。」
「丸山ワクチンですかぁ。 試すのはいいと思いますけどね。
まぁ、効きませんけどねぇ。」
「免疫療法とかはどうなんでしょうか。
血液を培養して入れ替えるというのを、うちの親戚もやっているんですけど。」
「あぁゆうのは、ほとんど詐欺に近いですねぇ。
高い金を出してね。 効果なんて分からない。
大体、あの方法を説いた教授は、自分が癌になったときに
その治療法を行って死にましたよ。」
「でも僕等としては1%の可能性でも信じたくて、
一日でも長く生きれるように手を尽くしたいんです。」
「気持ちは分かりますよ。僕だって父親を若い頃亡くしましたからねぇ。
その頃、僕は父親に何もしてやれなかったからね。
後悔することがいっぱいあるよ。
君達は親孝行が出来なかったって後悔しているかも知れないけど、
今から残った時間でしてあげればいいんだからね。
決して遅くない。
今こうして2人が僕を訪ねてるのだって既に親孝行なんだからね。
僕が病気になったとき、僕の子どもがこんなことをしてくれたら
本当に嬉しいと思うよ。
残った時間、ずっと一緒に居てあげなさい。
お母さんとの大切な時間を家族で過ごしなさい。」
○子先生も泣いている僕らを見て、
眼鏡を外して、涙をハンカチでぬぐっておられた。
「あと、主治医さんの治療法には間違いはないです。
この状況であきらめずによくやってくれてると思うよ。」
あねきと僕はずっと泣いていた。
質問しようと思っていた事柄は、頭から消えうせ、
現実を受け止めなければならない辛さを痛感していた。
○子先生は主治医に診断書を書いていた。
最後の文章に
「家族のメンタルケアに全力を注いでください。」
と書いてあった。
○子先生の言葉一言一言には、重みがあった。
これが名医なんだと思わせる説得力があった。
医者の力とは、診断や手術の能力だけではない、
親身になって本当の意味でのメンタルケアをできること、
これが名医の条件だと思った。
あっという間に30分は過ぎ、○子先生にお礼を言って病院をあとにした。
帰りの電車では、あねきと何もしゃべらなかった。
呆然としていたというより、
二人ともおかんとの幸せな日々を回想していたのだと思う。
電車は人ごみの大阪駅に到着した。
歩いて阪神百貨店の前を通ったとき、
あねきが
「ママに花を買っていこう。」
と言った。
僕はおかんにバラを選んだ。
赤、ピンク、淡いピンク、黄色。
花束にしてもらった。
おかんは喜んでくれた。
病室に入って、花束を渡すと。
「わぁ〜、きっれい!!」
と言って、笑ってくれた。
おかんと花束を持って一緒に写真を撮った。
このとき、
おかんの笑顔を見ながら、僕の心にはこれまでと違った感情が芽生えていた。
「残りの時間、おかんにできるだけいっぱい幸せを感じてもらおう。
限られた時間のなかで、僕は何ができるだろうか。」
2008.07/02 [Wed]
悲しい嘘
早朝、スーツに着替えて、兵庫医科大学病院に行く準備をしていた。
あねきが悲愴な顔で僕とおとんのところに走ってきた。
「さっき、先生に会って、今の状況を正直に話してもらってんけど・・・」
おかんの胃がんは骨にも転移している可能性があるということで、
昨日受けた骨シンチグラフィの検査結果が出ていたのだ。
「全身の骨にガンが転移してるねん。
レントゲン写真見せてもらってんけど、それこそ背骨から骨盤にまでガンが張り付いてて、
脳にまで転移してるねん。
ほんまに絶望的やと思ったわ・・・。」
あねきは泣くのを必死に耐えていた。
「それで、先生に正直あとどれくらいもつか聞いたんやけど・・・、
あと2、3日かもしれへんって。。。」
唖然とした。
さっき笑いながら朝食をとっていたおかんが
そこまで最悪な状況なんて・・・。
○子先生に会いに行くのはやめようと思った。
セカンドオピニオンどころではない状況だった。
あと2、3日なら、一分足りともおかんとの時間を無駄にしたくなかった。
おかんと離れたくはなかった。
「○子先生に会いに行くのやめよう。」
「でもママにはどう説明するの?」
あねきは心配そうだった。
急に○子先生に会いに行くのをやめたら
おかんはきっと自分の置かれている状況に気付くだろう。
そんな思いだけはさせたくなかった。
「おとん、どうしよう?」
必死に考えた。
「○子先生にレントゲンを送って、診てもらうことにしたって言うしかないなぁ。」
それしかなかった。
おかんの病室に入って行くのに勇気が要った。
おかんは僕の顔を見ると、なんとも言えないような嬉しそうな顔をする。
「おかん、○子先生、レントゲン写真を郵送したら、診てくれるって。
わざわざ行かなくてもいいみたいやで。」
おかんについた悲しい嘘だった。
「そんなんあかんわ。」
おかんの鋭い意見に心臓が止まりかけた。
「○子先生は忙しいひとなんやから、郵送なんかでレントゲン送ったら
後回しにされるに決まってるやん。
ちゃんと、今日行って意見聞いてきて!」
言い返す知恵も余裕もなかった。
おとんの目をちらっと見ると
「しょうがない、行ってこい。」
と言っていた。
「そやなぁ。 じゃぁ、今日やっぱり行ってくるわ。」
何もないふりをするのが精一杯だった。
この場を離れるのはあまりにも辛い。。。
いつなんどき、おかんが急変するかもしれない。
あねきも同じ気持ちを引きずって、重い足取りで準備を始めた。
準備が整った。
「じゃぁ、おかん行ってくるな!」
元気におかんに笑いかけた。
「うん。 頼んだで!」
おかんはまたなんとも言えない顔で僕に笑って言った。
「大丈夫、絶対大丈夫や。。。」
何度も自分に言い聞かせて、病室を出た。
朝7時
会社に出かけるサラリーマンの群衆に紛れて近鉄電車に乗り込んだ。
サラリーマンのだるそうな表情、学生の笑い声、平城京跡の平和な景色
そのすべてが僕には別世界に思えた。
二度と戻れない、安楽の世界。
二度と戻れない、平静な感情。
あねきと僕だけが放つ真剣なまなざし。
こんな僕等に○子先生はどんなアドバイスをくれるのだろうか。
2008.06/02 [Mon]
親戚の見舞い
おかんが検入院して一週間が経とうとしていた。
検査入院だと言っていたのになかなか退院してこないのが気になったのか、
親戚がお見舞いに来てくれた。
おばぁちゃんが7人姉妹だから、おかんの親戚は多い。
みんな揃うと、いつもにぎやかで仲が良かった。
「おかん、えみちゃんおばちゃんが見舞いに来てくれてるみたいやけど、どうする?」
おかんは戸惑っているようだった。
「弱ってる姿を見せたないし、がんってことも言いたないわ。」
そう言っていた。
「でもせっかく遠いところから来てくれてんねんからなぁ・・・。
入ってもらって。」
おばぁちゃんの妹のえみちゃんおばちゃん、その娘のさおりお姉ちゃん、
旦那さん、そして二人の子どものかんちゃんとおとねちゃんが病室に入ってきた。
おかんはやっぱり嬉しかったのか、みんなの顔を見ると嬉しそうにした。
かんちゃんとおとねちゃんは自分の孫のように可愛がっていたので、
幼いながら心配してくれるのが嬉しかったのだろう。
2週間前、僕が千里でフリマをするとおかんに言ったときも
「あぁ、その日、おとねちゃんの発表会やわ、どうしようかな・・・。」
なんて言っていたほどだ。
「おばちゃん、おとねな、今、シンバル担当してるねん。」
「シンバルできるようになったん?
すごいなぁ〜。おとねちゃん。」
おかんの話し方を聞いていると、
孫を持ったときにこんなふうにかわいがってくれるんやろうなぁ〜
というイメージが僕のなかに生まれた。
おとねちゃんがおかんに手紙を書いてきてくれていた。
おとねちゃんは手紙を開けて、おかんに読んでくれた。
「おばちゃん、早く良くなってね。」
最後の一文を読んだとき、
おかんは涙ぐみながら「ありがとう」と言っていた。
その後、えみちゃんおばちゃんにも病気のことも正直に少しずつ話し始めた。
身内には正直に話そうと決めたようだ。
えみちゃんおばちゃんは大腸がんだった。
おかんはえみちゃんおばちゃんの通院に頻繁に付き添っていた。
歩くときはおばちゃんのかばんを持ってあげて、
おばちゃんが弱気なことを口にすると、
「そんな、弱気になってどうすんの?
絶対に負けたらあかん。」
とおばちゃんを励ましていた。
NHKニュースで大腸がんに有効なワクチンが横浜のがん学会で発表されたことを知ると、
すぐにメモをとって、まだ出勤前のあねきに電話をし、詳しく聞いてくれるようにお願いしたりしていた。
おばちゃんの病気をいつも気にかけて励ましていたおかんが、
がんに侵されているなんて誰が思っただろう。
おばちゃんが一番驚いていたに違いない。
30分も話をすると、おかんは少し疲れたように見えた。
廊下でおばちゃんたちはショックを隠せずに泣きくずれていた。
それから次の日も、その次の日も、親戚がぞくぞくと見舞いに訪れた。
じゅんこお姉ちゃんは、おかんの昔の話を始めた。
「さーこ姉、昔さ、細くてモデルみたいにめちゃくちゃ綺麗やったやろ?
そやから入院してちょっと痩せたら、また綺麗にならはるで」
おかんはじゅんこお姉ちゃんを横目でいたずらに睨みながら笑っていた。
おかんとお見舞いに来てくれた親戚一人ずつ写真を撮ることにした。
両手でおかんの手を握ってくれるひと。
おかんの肩を抱いてくれるひと。
一緒に笑顔を作ってくれるひと。
その一人一人にの肩に体を委ねて微笑むおかんは愛おしくて、
なんとしても助けたい、そう思わせた。
みんながそう願っているのだから、助からなければならない。
おかんは、こんなにたくさんの人に励まされて幸せなのだから。
少しひっかかたのは、
何人かがお見舞いの帰りに、「胃の検査」の予約を取って帰ったこと。
“明日は我が身”
そういうことなんだろう。
おかんだって2週間前まではいたって元気で病気の影すら見せなかった。
人間、2週間先の未来すらわからないのである。
その夜はおかんの若い頃のアルバムを一緒に開いて、
昔の想い出を話してもらった。
おじいちゃんのこと、学生時代のこと、修学旅行のこと、
成人式のこと、おとんのこと、色々話してもらった。
幼い頃にも一度聞いたことのある話。
これが最後になるかもしれないと思い
胸に刻みながら話を聞いた。
アルバムを閉じるとおかんは疲れたのか
すぐに眠りについた。
あねきは簡易ベッドを持ってきて寝る準備をした。
午後10時、病院の照明がブレーカの音とともに落とされた。
明日は外科医の権威、○子先生と会う日だ。
2008.05/09 [Fri]
セカンドオピニオン
おかんが使用している抗がん剤 "TS-1" を調べていた。
TS-1は副作用が少なく、胃がんに対しては奏効率47%と書かれていた。
今のところ、おかんもそれほどしんどくなさそうだった。
TS-1にシスプラチンという点滴の抗がん剤と併用すると奏効率は70%。
かなり期待できると素人ながら感じた。
ただ、シスプラチンの副作用は強烈で体力を消耗してしまうので、
今のおかんには使用できないと主治医からは言われていた。
この前、ネットで調べた名医といわれている外科医にセカンドオピニオンを聞きたいと思っていた。
セカンドオピニオンとは、別の病院の先生に見解を聞くことで
がん患者がごく一般的にやることである。
早速、兵庫医科大学病院に連絡した。
母の状況を詳しく話したうえで、お願いした。
「○○先生にセカンドオピニオンをお願いしたいのですが、時間とっていただけないでしょうか。」
1時間だけ時間をとってくれるように先生に頼んでくれるとのことだった。
しかし、次の日、携帯に再び連絡が入った。
断りの電話だった。
「先生は今ものすごく忙しいので、やはり時間がとれないとのことです。」
予想はしていた。
いくらTVや雑誌で名医やら“神の手”やら紹介されている人がいようと、
その先生に手術してもらえる人というのはほんの一握りであるということを。
おかんは手術はできないので意見を聞きたいだけなのだが、
それすら叶わない。
しかし、僕はあきらめたくなかった。
「そこをなんとかお願いできないでしょうか。15分でもいいんです。
なんなら、病院から帰る電車のなかで意見を聞かせてもらえるだけでも
いいんです。
母はいつ亡くなってもおかしくない状況なんです。
生きてるうちに今の治療方法が正しいかどうか確信が欲しいんです。
なんとかお願いします。」
沈黙が続いた。
「・・・。 わかりました。先生にもう一回お願いしてみます。」
それから2時間後、再び連絡がきた。
「先生にもう一度お願いしました。
11月15日の10時からに30分だけ時間がとれるとのことです。
レントゲン写真と主治医の先生からの依頼表を持って、
時間厳守で来て下さい。
ただし、セカンドオピニオンではなく、転院検討という形で診断させていただきます。」
なんだか勿体ぶった言い方に聞こえなくもないが、
まぁ、見てもらえるならどんな形でもいい。
「本当ですか! ありがとうございます!」
携帯で話しながら、深々とお辞儀をした。
急いで病室に走っていった。
「おかん、前に言ってた○○先生、話聞く時間とってくれるって!
あねき、11月15日に一緒に兵庫医科大学病院に行こう。」
おかんの表情も少し明るくなった。
「ちゃんと聞いてきて、正直に話してや。」
「うん、わかってる。」
先生に詳しく話できるように色々調べて聞くことをまとめとかないと。。。
あねきと一緒に聞くことを考えた。
暗いトンネルの中に見えた薄く細い光。
そんな小さな希望を胸に抱きつつ、抗がん剤治療の論文を読み漁った。
2008.04/29 [Tue]
感情が欠落した看護師
59病棟に来てからは “痛みのコントロール”というのが始められていた。
要は、痛みを取るために、日々痛みが生じる時間帯をメモし、
痛み止めを飲む時間や量を調整するというものだった。
おかんの痛み止めの量は次第に増えていった。
友達から
「痛み止めの投与のし過ぎで、たまに記憶がとんだり、
昔のことを話したりするようになった。」
との経験談を聞いていたので、
“本当にこんなに飲んで大丈夫か”
“意識がおかしくなったりしないのか”
という不安にかられた。
あねきに言った。
「ほんまにこんなに飲む必要があるんやろか。
必要以上に飲んでる気がするわ。」
「ほんまやぁ、看護師さんに聞こうっか。」
あねきも同じように考えていたようだった。
主任看護師が病室に入ってきた。
「きたもんさん、どうですか。痛みのほうは?
痛い時間帯は今ありますか?」
「今はあまり痛みません。」
おかんは答えた。
「すいません、痛み止めの薬が随分増えたんですけど、
本当にこんなに飲む必要あるんですかねぇ。
今、痛みを感じなかったら飲む量を減らしてもらいたいんですけど。」
そう言った瞬間、主任の顔色が変わった。
「痛み止めを減らす必要なんて全くありません!
痛み止めを飲むことは悪いことなんかじゃないんですから!」
そこまでムキにならなくてもいいのにというほど声を荒げた。
こっちはただ納得できる説明がほしかっただけなのだ。
この主任看護師、前からその言葉遣いや態度に気になっていた。
「でもちょっと飲む量が多すぎる気がするんですけど。」
あねきが言った。
「だって、痛かったらもったいないでしょ!」
「えっ・・・。」
耳を疑った。
一瞬、病室の空気が凍りついた。
「もったいないって、なんのことですか?!」
あねきが声のトーンを落として聞き返した。
うすうす想像はできたが、まさか…
「生きている時間ですよ。」
僕はキレた。。。
「今、何って言った!!」
おかんのいる前で、こんなことを口にするなんて、
病院の人間として、許せない!!
あねきは涙を流して、主任に食って掛かった。
「主任さんは、本当に私たちと同じ気持ちで、
母に接してもらってるんですか?
私たちがどんな気持ちか分かったうえで
そんなことを口にされてるんですか?」
必死の訴えだった。
「もう、やめなさい。」
おかんが止めた。
「もちろんですよ。
でも痛み止めが悪いという認識は捨ててもらわないと・・・。」
痛み止めに関する説明もろくにしないで、おかんの前で
こんな不謹慎なことを口にした主任看護師を絶対に許せないと思った。
僕は主任を睨み続けた。
聞いていたおかんの気持ちを考えたら、居たたまれなかった。
とんでもない看護師だ!
速攻、主治医に言って担当を外してもらおうと思った。
こんな人間が主任だなんて・・・。
59病棟
いわゆる “がん病棟”。
ここは何かがおかしい。
そんな気がした。
毎日、がん患者を相手にしていたら常識や普通の感覚を失ってしまうのかもしれない。
少し精神的な苦痛を和らげてほしいだけなのに不安を煽るなんてありえない。
感情が欠落した主任看護師。
その後も、信じられない言動が続いた。
僕はこの女性を生涯許すことはできないだろう。
その存在自体が、まさに病院の"がん"だった。。
2008.04/27 [Sun]
抗がん剤治療の開始
おかんの血中酸素濃度をまめに計っていた。
入院当初はかなり低かったのだが、
98%まで上がり、かなり改善されていた。
ただトイレに行くには、吸入器を付けたまま
重い酸素ボンベを転がして行かなければならなかった。
トイレにはあねきと僕が交代で付き添った。
看護師さんは車椅子で行くといいと言ってくれていたが、
僕は足腰が弱らないようにおかんにできるだけ歩いてほしかった。
「おかん、しんどいやろうけど、できるだけ歩いてトイレに行こうや。
一週間ベッドに座ってるだけで、足腰ってめちゃくちゃ弱るみたいやで。
じいちゃんもそれで立てなくなって、そのまま悪化したからなぁ〜。」
ほとんどの人は入院して、寝たきりになって筋肉が弱り、体力が低下し悪化する。
僕のなかにはそんな思い込みがあった。
おかんもそれに応えてくれた。
看護師さんが「車椅子で行きますか?」と聞くと、
「いいえ、歩いて行けます。」 と言って頑張ってくれていた。
歩くスピードは遅く、少し息も上がるが、トイレくらいは大丈夫なようだった。
おかんは昔から潔癖でウォッシュレットの付いているトイレしか使わなかった。
それ以外のトイレが空いても、決して使おうとはしなかった。
その潔癖さは言うまでもなく、そのまま僕に受け継がれている。
主治医の先生には積極的に話するようにしていた。
「先生、あとで相談があるんですけど、時間いただけませんか。」
先生はいつも忙しい方で、相談できるのは決まって夜だった。
「先生、ここ3日、痛み止めを飲んでるだけで、
どんどんガンが進行しているようで怖いんです。
できるだけ早く抗がん剤治療を始めて欲しいんですけど。」
「そうですね。一週間くらいは様子見たかったんですけど、
呼吸状態もだいぶましになってきているようですし、
明日から抗がん剤治療を始めることにしましょうか。」
「本当ですか。お願いします。」
この病気は判断ミスによる一日の遅れでも命取りだ。
できるだけ早く手を打ちたかったので、少しほっとした。
「使用する抗がん剤なんですが、先ず最初は、一番効く可能性の高い
TS-1を使用します。経口摂取の抗がん剤です。カプセルですね。」
「効く確率はどのくらいですか。」
「4割程度だと考えてください。
効果はひとによってまちまちです。
ただ、あまり期待しないでください。
抗がん剤は延命治療ですので、一時的に効いたとしても、
だんだん効かなくなることが多いんです。」
「どのように摂取するのですか?」
「一日3回食後に摂取します。
2週間続けたら1週間休みます。それを1クールとします。
ただ、抗がん剤の副作用で途中で血小板や白血球の数が減少していくことが多いです。
その時点で、抗がん剤をストップしなくてはなりません。」
「副作用はやはりきついんですか?」
「昔の抗がん剤よりもだいぶ副作用は軽くなりましたけど、
気分が悪くなり食が喉を通らなくなったり、吐き気が止まらなくなったりすることが多いです。
これも個人差がありますが。」
「そうですか。わかりました。そしたら明日からお願いします。」
「あと・・・、ワクチンについてですが、
数パーセントでも効く可能性があるなら使用したいんですけど。」
「うちではワクチンは許可されていませんので・・・。」
「でも、ワクチンを購入するには主治医の認可が必要なんですよ。
なんとかなりませんかねぇ・・・。」
「うう・・・ん。。。」
沈黙が続いた。
「とにかく検討していただけますか。」
それだけ残して、その場を離れた。
TS422
どんな薬なんやろう。
すぐに調べなきゃ。
抗がん剤はその副作用の強さから、拒否する人も多い。
見ているほうも本当につらいと聞く。
抗がん剤の副作用によって体力を落とし、亡くなる人も少なくない。
一時は本当に悩んだが、可能性がある限り、試さないわけにはいかなかった。
おかんもそう考えていた。
おかんは明日から苦しくなるやろうなぁ。
今のおかんの笑顔をもう見れなくなるかもしれない・・・。
ぞっと不安が押し寄せてきた。
病室に戻っておかんに言った。
「おかん、さっき先生と話してきてんけど、
明日から抗がん剤治療できるって。」
「そうか。 おかぁさん、がんばるわ。」
「うん、しんどいかも知れへんけど、みんな付いてるから。
栄養あるもの食べて、頑張ろうな。」
おかんの手を握って言った。
おかんを励ましながら、僕は不安な気持ちで押しつぶされそうだった。
2008.04/23 [Wed]
ママとのガン克服日記

天理街道を歩きながら、ネットカフェを真剣に探していた。
情報は命だ。
今回の件で、痛いほどそのことを思い知った。
「今や、毎年胃がんと大腸がん検査するのは常識やで。」
誰か一人でもおかんにそうアドバイスしてくれてた人間がいれば・・・、
そんなことが頭から離れなかった。
最近では女性のなかでは乳がんや子宮がん検診を受信するのは常識になっている。
検診の有用性が声高に各メディアで叫ばれるようになったからだ。
一方で胃がんや大腸がん検査を受けている人はそれほど多くない。
毎年検査を受けている人は全体の3割に満たないという。
乳がんや子宮がんと同じように、受診促進のコマーシャルでもされてれば、
もっと死亡率は低くなるだろうと思う。
もっといろんな情報に敏感にならなければ・・・。
そんなことをごちゃごちゃ考えていた。
探しても探してもいっこうにネットカフェが見つからない。
通り行く天理教信者(若者)に聞く。
「あの〜、ここら辺にネットカフェありませんかねぇ〜。」
「えっと。。。天理の街にはネットカフェないんですよねぇ・・・。
奈良市に出ないと・・・。」
どんな街やねん、ほんま。
思わず声に出してつっこみたい衝動だった。
この時代にしてネットカフェがないなんて。。。
とりあえず、いろいろ調べなきゃならない。
おとんに言って、急いで奈良の電気屋へいっしょに行った。
目的はPCモバイルカードの購入。
使い放題で月9800円とやや高いが、そんなことを気にしている場合じゃない。
直ぐ契約した。
持ってきたノートPCに差込んで、やっとネットが使える状況になった。
電気屋から出ようとしたとき、あねきからメール。
「電気屋さんのとなりの文房具屋でこのノート買ってきて!!」
写メが送られてきた。
象の形のかわいいノート。
「なんで??」
「ママとのガン克服日記を今日からつけ始めてん!」
「おっけー。何冊買う?」
「う〜、それじゃ、永遠に日記続けたいから、店にあるだけ全部!!」
「え〜!全部? よっしゃわかった!」
店にあるだけのノートを購入。
店員には “どんだけ、象好きのおっさんやねん!”
と思われてるに違いない。
ありったけのノートを詰め込んだ紙袋を両手に抱え、店を出た。
そして心で祈った。
「どうかこの日記が一生続きますように。。。」
2008.04/07 [Mon]
真友
おかんの側にいるときは安心できるのか、穏かな気分になれた。
ただ、病室から一歩外に出ると、相変わらず涙が止まらなかった。
とにかく死を受け入れるということが僕には一番大切だったが、
それができなかった。
今、元気で僕の目の前に居るおかんが、亡くなってしまう。
それが分かっているのに、何もしてあげられない、
医者もどうもできない、治す手段がない、
その悔しさ、もどかしさ、むなしさが押し寄せてきて、
一瞬にして僕の心を孤独で覆い尽くした。
ただおかんが死行くのを待つだけなのか。
おかんがどんな気持ちでベッドに座っているのか。
それを思うと居たたまれなかった。
トイレ、ロビー、食堂、お風呂・・・、いたるところで泣きまくった。
朝食をあねきと食べに行った。
まったくご飯が喉を通らなかった。
涙がポトポトと味噌汁に落ちて消えていった。
「ちょっと、泣かんといてよ。」
あねきも潤んだ目で言った。
「おかんが・・・おかんが死ぬって、どうして受け入れられる?
どうやって生きていったらええねん、俺は・・・。」
「まだ生きてるママに対して、泣くのは失礼やで。」
本当にそうだと思った。
生きているうちは泣かずに、おかんとの時間を大切にしたいと思った。
こうしてる間にも病状が悪化するんじゃないかと思うと、食事もゆっくりできなかった。
食べ終わると急いで病室に戻った。
おかんが元気そうに笑うとほっとした。
夜になるといろんな人が連絡をくれた。
「昨日、なにげにブログ見たら、お母さんのこと知って、
どうしても気になって仕方ありません。
たかが休職するほどお母さん悪いの?心配です。
たかのお母さんは優しかったから、ほんとに好きだったの。」
4年前の彼女、2年ぶりの連絡。
おかんのこと好きと言ってくれて嬉しかった。
「お〜、たかゆき。 今大阪出てきてるねんけど、クラブいかへん?」
「いや・・・実は、おかんが、がんで入院してもて、今奈良に帰ってきてるんよ。」
「お〜、そっか。 じゃっ、また元気なったら連絡して〜。ぶちっ」
俺が親友と思ってた男、の回答だった。
「たかちゃん、久しぶりに曲作りに行きたいなぁっと思って、いつか空いてる?」
「実はおかんが天理の病院に入院してもて、がんやったんよ。」
「ええっ!大変やんか! 天理の病院?俺何かできる?今から天理に行こうか?」
幼馴染。 やっぱり心友。
「お母さん残念ですね。
つらいやろうけど、やってあげたらいいと思うことは全部やってあげて!
私は恥ずかしくて父に何もしてあげられなかったから・・・。
お母さんはシーズン何なの?私の父はシーズン4でした。
たかゆきもお母さん亡くしたら、人生の儚さを知って人に優しくなれると思うよ。」
大学4回の時の彼女。 残念って。
「亡くなったら」の話すんじゃねぇ〜。
しかも、"シーズン4" って。。。海外ドラマちゃうねんから・・・。
「神様は、あなたが乗り越えられるから、その試練を与えたのです。
だから、私はたかゆきがそれを乗り越えられると信じています。」
女友達。 それ、、、なんかちゃうやろ・・・。 どう返したらええねん。
「今、なぁにしてんの〜? 今から飲みに出てこない〜?」
夜中1時半、酔っぱらった声。
「あぁ・・・、ごめん。実はおかんが入院して、奈良に帰ってきてて・・・。」
「あっ、ごめん!! じゃぁ、切るよ。」
目が冷めたようだ。
「北門さん、今までお仕事すごく頑張ってたから、
休職するのはとても勇気が要ったでしょう。
でも、大事な時期だし、その判断は間違ってないと思います。
ほんとに仲の良い素敵な家族だし、お母様は北門さんのことが大好きだから、
北門さんが側に居てくれたら、お母様はほんとに心強いと思います。
弱気にならないように頑張ってね。」
昔、お互い好きだったが、実らなかった子。
まさにいろいろな反応があった。
親身に心配してくれる人、遠慮する人、そっけない人、説教臭い人・・・。
僕は、別に一緒に泣いてほしい訳でもないし、慰めてほしい訳でもない。
ただ、そのときの反応で “僕にとっての友達の意味” ってものが分かる気がした。
あねきの友達。
まるで自分の親のようにおかんを心配し、あねきを支えてくれた。
僕はかつてこれほどの友情を見たことがなかった。
僕が31歳になって、そしてこの状況になって、気づき始めたこと。
それは、
歳を重ねるごとに友達は少なくなるが、最終的に残るのは、真友だけだということ。
心から心配してくれた人にありがとうの気持ちでいっぱいだった。
その日は、いろんな友達の声を頭にひびかせながら、
病院のロビーのソファでおとんと寝た。
"Champaign for my Real Freinds, RealPain for my Cham friends!"
僕の人生の教訓だ。
2008.04/06 [Sun]
59病棟
特大のスーツケースを転がしながら病院に到着した。
今日はおかんが救急病棟から入院病棟へ移る日だった。
できることならあの救急病棟にずっと居たいと思っていた。
救急病棟の看護師さんは、すごく気が利く優しい人ばかりだった。
一番忙しい病棟にも関わらず、30分ごとにおかんの様子を見に来てくれた。
僕が主治医の先生と話した後、
ショックのあまり病棟を出ようとしたとき、
一人の看護師さんが追いかけてきてくれた。
「きたもんさん!・・・、先生はどんな話されましたか?」
「あっ・・・。 転移してるので手術は出来ないって言われました。
呼吸状態が良くなるまで、当分ステロイドにて肺の腫れを沈めるそうです。
それが改善したら、抗がん剤治療が出来るということです。
転移してたら手術できないというのは常識なんでしょうか。
僕は諦めきれないんですけど。」
多分、医療の世界では常識なんだろうけど、彼女は何も意見などせず僕の話を聞いてくれた。
「入院棟へ行かれても、また何かあったら教えてください。力になりますので。」
とても親身に心配してくれたおかげで少し励まされた。
彼女は将来もっと素敵な看護師になるにちがいない。
おかんはすでに入院病棟へ移っていた。
59病棟だということだ。
59病棟へ足を踏み入れる。
狭苦しくてなんだか暗い雰囲気の病棟だった。
広くてきれいな救急病棟とは空気が違っていた。
おかんの病室は6人部屋だった。
入って一番右手前。
「おかん、もうこっちに移ってたんやなぁ。
見て。 泊込みの準備万端やで。 これでずっと泊まれるわ。」
特大のスーツケースを見せておかんに言った。
おかんは 「頼もしいやん。」 と言いたげに笑った。
しかし、この病室、狭い・・・。
荷物の置き場がなかった。
家族全員入るのも、周りに迷惑になるようで気が引けた。
病室の他の患者さんに挨拶をした。
後ろのときさん、隣の山村さん、奥の山中さん、
のちにおかんや僕たち家族を励ましてくれた方々だ。
59病棟。
消化器系の患者さん、主にがん患者が入院している病棟だった。
この病棟は外の世界とはかけ離れている。
誰もが仲良く話をしながらも自分と他人の病状を比較している。
どちらがどれだけ長く生きることができるか気にしている。
そんなところである。
僕たちは今日からこの59病棟に泊り込む。
おかんが余計なことを考える暇もないほど、ずっと側に居よう。
そう思っていた。
この日から僕たちの闘いが始まった。
病気との闘いはもちろん、病院との辛辣なやりとりが待っていた。
2008.04/01 [Tue]
泊り込みの準備
大阪の家にたどり着いた。
木曜に直接病院に駆けつけたせいで、部屋は散らかりっぱなしだった。
早速、風呂に入り、準備に取り掛かかる。
おかんに買ってもらった海外旅行用のスーツケースを出す。
家族で撮った写真はすべて持って行きたいと思っていた。
こんなこともあった。 こんなとこも行ったね。 と、おかんに思い出して欲しかった。
無造作にしまってあった写真をすべてスーツケースに詰め込んだ。
デジタルビデオも持っていこう。
この状況でビデオを撮るのは気がひけるが、
おかんが許してくれれば、元気な姿、おかんとの会話を残したかった。
防寒着、寝間着、洗面用具、すべて押し込んで準備を整えた。
PCを開ける。
会社へメールを打った。
おかんの病状を詳細に書いたあと、
これからできるだけおかんの側に居たいので休職させて欲しい旨を送った。
ブログに「雲隠れのお知らせ」をアップした。
それから、おかんの病気の情報収集を始めた。
まずは基本的なことから調べた。
胃がん ステージ4
胃がんはステージ2くらいまでなら95%の確率で完治できるが、
ステージ3を過ぎると生存率が極めて低くなるということが分かった。
胃がんは早期発見が命だった。
ステージ4の生存期間。
悲しくなるような情報しかでてこなかった。
がん患者の闘病日記も何件か見つけた。
どれも途中で更新が途絶えていた・・・。
2ちゃんねる掲示板。
抗がん剤治療をするか否か。
苦しい思いをして少しでも長生きするか。
苦しまないで安らかに逝かせてあげるか。
どれも激しい論議が交わされていた。
民間療法。
蓮見ワクチン、丸山ワクチン。
医薬品の認可はされていないが、一部で結果が出ている。
希望が持てたが、使用を認めている病院が少なかった。
主治医に相談してみよう。
健康食品。
アガリクス、乳酸菌酵素、サメの軟骨、メシマコブ、フコイダン・・・
弱みに付け込んでいるのだろうか、高額商品のサイトも多かった。
末期がんに効果があるとは思えなかった。
日本の名医。
これが一番知りたかった情報だった。
セカンドオピニオンを聞きたい。
なんなら転院したっていい。
選りすぐった頁をプリントアウトし、目を通した。
○子三○留先生
兵庫県立医科大学 外科医 日本有数の名医
その名前が目に飛び込んできた。
温和な、まさに“外科医の権威”という佇まいだった。
この先生に会って相談してみよう。
一瞬でそう思わせる何かがあった。
心に決めて、連絡先を調べた。
あねきに電話した。
「おかんの調子どう?」
「うん、元気やで〜。 早く戻りよ〜。」
重いスーツケースを転がしながら、夕刻、病院に向かった。
2008.03/27 [Thu]
母との約束
輸血のための血液が運ばれてきた。
輸血する血液型に間違いがないか、自分の目で何回もチェックした。
今日1日で、2袋輸血するそうだ。
胃の腫瘍からの出血は便から出るそうだが、おかんは全く気付かなかったという。
輸血の間、おかんといっぱいしゃべろうと思った。
おかんはずっと何を考えていたのか、突然つぶやいた。
「お母さんは、ひとの2倍生きたわ。 ひとの2倍幸せやった。」
いろんな意味で衝撃の一言だった。
「そやで・・・。 おかんは誰から見ても幸せもんやで。」
「お母さん、夢も叶ったしな。」
「おかんの夢ってなに?」
「2人とも一人前に育ったし、2人に家も買ってあげられたし、
自分の住みたかった家にも住めたしな。
欲を言えば、たかゆきの結婚式とみほの子供を見たかったわ。
あと5年なぁ、生きれたら・・・。」
このとき、初めて自分が今まで結婚しなかったことを悔やんだ。
「俺がもっとはよ結婚しといたらよかったんやなぁ。」
「ううん、それは慎重に考えたらええねん。
結婚に失敗して、離婚したらあかんからな。
子どもにだけは悲しい思いさせたらあかんで。 それは約束してや。」
「うん。
昔から思っててんけど、おかんはなんで子どもにそこまでしてあげられるん?」
「それは自分の子どもやもん。」
「でも、ここまできる親って少ないやん。」
「う〜ん、そやなぁ・・・。
お母さんのお父さん、昔、有名な競輪選手やったやろ、
ずっと寮暮らししてはったから、お母さん小さい頃
一人の時間が多くてな、寂しい思いしてん。 お母さん一人っ子やったしな。
そやから、自分は子どもには寂しい思いさせやんとこうって思ってたんよ。」
おかんがなぜ子どもにこんなにも愛情を注げるのか、なんとなく分かった気がした。
「お母さん死んだら、お父さんが一番かわいそうやわ。
寂しい老後になるやろうから・・・。」
「そやなぁ、あのひと不器用やし。
でも万が一、そうなったとしても僕がいっしょに住むから。
心配はせんといて。」
「どこで住むの?」
「僕のマンションに来てもらうわ。仕事も辞めたし。」
「実家は? あの家だけは売らんといてな。」
「当たり前やん。 おかんの愛した家やで。
思い出もいっぱい詰まってるし。 売るなんてことできへんわ。」
「そっか・・・。 そやな。」
おかんは少し安心したようだった。
このころ、僕の心はすでに戦闘態勢に入っていた。
あねきと力を合わせれば、何だってできる。
今までも何だって乗り越えてきた。
大阪に一回帰って、病院に泊り込む準備をしよう。
仕事もしばらく休職させてもらおう。
とやかく言われるなら、別に辞めたっていい。
今まで情熱を注いできた仕事だが、後から作り出せるものはこの際捨ててもいいと思った。
家族に大阪に準備しに帰ると伝え、一旦病院を離れた。
この短時間の間におかんに何も起こりませんように・・・。
祈る気持ちでいっぱいだった。
「お母さんは、 ひとの2倍幸せやったわ・・・。」
その言葉が頭から離れなかった。
あの言葉は、おかんの本心だったんだろうか。
それともただの強がりだったのか。
おかんの言葉を何度も頭の中でリピートしながら、僕は大阪に向かった。
2008.03/21 [Fri]
主治医との面談
主治医とのアポをお昼にとっていたが、
救急が入ったため、夜に変更してほしいと看護婦が言ってきた。
あねきと一緒に話を聞くつもりだった。
主治医に会う前におかんは僕に言った。
「あとどれだけもつか先生にはっきり聞いてきて!」
酷な役目だった。
夜7時。
主治医に初めて会った。
僕とほとんど同じ歳くらいだろうか、若くて繊細な印象の先生だった。
「早速ですが。。。」
先生が切り出した。
「入院されたときの肺のレントゲンの結果、いたるところに影が見られました。
原発を特定するために、検査をしましたが、胃に4cmの腫瘍が見つかりました。
生検の結果が出ないと断言はできませんが、
私の経験からして、間違いなく胃がんであると思います。」
「肺以外の臓器への転移はないんですか?」
「肺に転移している時点で、全ての臓器へ転移している可能性があります。
他の臓器は調べてもしょうがないので調べてません。」
「しょうがない」という言葉がどうも引っかかった。
「手術はできないんですか?」
「肺へ転移しているので、進行としてはステージ4となります。
転移している場合は切っても意味がないですから、手術はできません。」
今度は「意味がない」という言葉がどうも引っかかった。
素人には理解できなかった。
原発ががんを広める影響力が一番強いのだから、
まずは原発を取り除いたらいいのではないか。
そう思えて仕方がなかった。
「なぜですか?原発を切ったらいいんじゃないですか?」
「他の臓器に転移していますので、手術をしても体力を消耗させるだけで意味がないんですよ。」
「失礼ですが、よくTVで放送してるGOD HANDと言われてる先生に診ていただいても
無理なんでしょうか?」
「そうですね。無理ですね。。あくまで手術できるのは転移していない場合ですので。」
「あねきは納得できるの?」
「ん・・・・ん。」
「肺の状態はどうなんでしょうか。」
「肺のリンパに転移してます。
癌性リンパ管症を発症しており、肺が腫れた状態になっているので、
今は点滴のステロイドで腫れを抑えています。
昨日よりはだいぶ呼吸も落ち着いています。
あと・・・、血液検査をしましたが、血小板の数が
通常のひとの半分以下になってます。
胃の腫瘍からちょっとずつ出血していたんでしょうね。
明日、輸血することにします。」
どおりで顔が真っ白だったんだと思った。
「正直、あとどれくらいもつんですか?」
「はっきりしたことはいえません。ただ癌性リンパ管症の場合、
急に悪くなることが多いです。」
「抗がん剤治療はできるんでしょうか?」
「昨日はだいぶ呼吸状態も悪かったんですが、
呼吸状態が良くなれば、できるかもしれません。」
「そうですか・・・。」
話は終わった・・・。
先生は、私たちが質問したこと以外は話さず、もどかしさが残った。
一緒に頑張っていきましょう!
そういう言葉をどこかで期待していたのかもしれない。
けれど、励ましや慰めの言葉はなかった。
変に希望を持たせてしまっては駄目なんだろうと感じた。
面談室を出て、おかんに会いに行った。
早速聞かれた。
「先生、あとどれだけもつって言ってた? 3ヶ月くらいか?」
「う〜ん、聞いたんやけど、先生、ほんまにわからへんって。
呼吸状態が良くなったら、抗がん剤治療もできるかもって言ってたよ。」
おかんの顔を見るのがつらかった。
「とにかく、頑張ってまずは呼吸状態が良くなるようにしよう。」
そう言って、おかんを励ました。
「癌性リンパ管症」
初耳だった。
その頃はまだその病気の怖さを知るはずもなかった。
2008.03/14 [Fri]
父の涙
病室に戻ってくるとおかんは「疲れたからもう寝るわ。」と寝る準備を始めていた。
救急病棟の看護婦さんに明日主治医の先生と話できるようにお願いした。
僕はスーツのままだったが、着替えもなく、救急病棟のソファのうえで寝ることにした。
救急病棟には1時間毎に病人が運ばれてきた。
軽い怪我のひとから、意識のなくなったひと、もうひっきりなしだった。
いかに僕らが死と隣り合わせで生きているかを実感させられた。
何時になってもまったく寝付けなかった。
おかんが心配で何度も寝顔を見に行った。
この寝顔がいつか見れなくなってしまうのではないか、そう思い、目に焼き付けた。
おかんの寝息を確認してソファに戻る、それを繰り返した。
あるとき、おかんのベッドに見に行くと、カーテンの外からおとんの姿が見えた。
おとんはじっとおかんの寝顔を見て何かを考えていた。
僕は邪魔しないようにまたソファに戻った。
結局、その日はほとんど寝つけないまま夜が明けた。
朝7時、おかんは朝食のおかゆを食べていた。
少し顔に血の気がなかったが、話もでき元気そうだった。
廊下に出るとおとんがソファに座って何か考え事をしていた。
「おとん、だいじょうぶ?」
「おぅ。 おかぁさん、ちゃんと食べてるか。」
「うん。」
おとんの顔もやつれて見えた。
「俺は今までお母さんの側におって何をやっとったんや・・・。」
おとんが切り出した。
「朝から晩まで仕事仕事って、俺は何やっとったんやろなぁ。
ずっと一緒に暮らしてて、お母さんのこと全然気づいてやれへんかった・・・。
ここ最近、土曜日も仕事やったから日曜は寝てばっかりで、
どこにも連れて行ってあげてなかったしなぁ。
こんなんやったら、1年前に仕事辞めて
お母さんとあちこち旅行でも行っといたら良かったんや。
仕事仕事って、あほらしい。。。」
おとんは歯をくいしばりながら、涙を流していた。
おとんは仕事に厳しい人間だった。
今までのおとんなら絶対に口にしないような言葉だった。
しかし、この状況を受け止めようとすれば、今までの考えなど一瞬で変わってしまうのも当然だ。
僕たちは、この先の命はもちろんあるものだと思って、毎日生きている。
仕事や貯金、健康管理や自己啓発、人間関係すべて未来のためだ。
でもその前提が崩されたとき、今の生き方は真っ向から否定されるだろう。
僕の命が50歳までだとしたら、
まず僕はすぐに仕事などやめる。
貯金などしないし、すぐに旅行にも出かける。
家族や大切なひととの時間を大切にし、子供だってすぐにでも欲しいと思う。
それは今の僕の生き方とは180°違う。
そう思えば、僕は普段の生活の中で本当にしたいことや、やるべきことを
すべて未来に託して生きているんだと気づく。そして同時に空しさが押し寄せてくる。
「お父さん、明日会社に行って仕事辞めるって言ってくるわ。
今辞めへんかったら、一生後悔することになる。。。」
おとんは呟いた。
おとんの会社では定年間近で退職すると退職金はごっそりなくなってしまう。
かわいそうだったが、今はそんなこと言ってる場合ではなかった。
おかんだけでなく、おとんのこれからも心配になってきた。
それからおとんは、ちょっと天理街道に買い物に行くといって3時間戻ってこなかった。
その日以来、おとんの涙を見ることはなかった。
2008.03/10 [Mon]
人生最悪の日 vol.5 (決意)
病院の外に出て、冷たい風にあたり気持ちを落ち着かせた。
外の景色が全て夢のように見えた。
「これが本当に現実の世界なんか?」
今起こっている現実を受け止められなかった。
「おかんはあとどれくらいもつんやろう?
今はまだ元気そうに見えるけど。。。
しかしよりによって、なんでうちのおかんやねん!
あんなに良い人が死ななあかんなんて・・・。」
やり場のない怒りがこみ上げてきた。
とにかく貴重な時間を無駄にしたくなかった。
できるだけ母の側にいてあげようと、赤くなった目を乾かしながら病棟へ戻ろうとした。
そのとき、携帯がメールを受信した。
大学1年のときの彼女からだった。
10年ぶりのメールに少し驚いた。
「来週、東京から京都に帰るよ。」的なメールだった。
とにかく苦しくて、おかんのことをメールに入れてみた。
思わぬ返信が帰ってきた。
「想像できないくらいつらいだろうけど、
たかゆきが良いと思ったことはすべてやってあげられるようにして!
私もがん経験者やから、遠慮なくなんでも相談して!」
意味がわからず返信した。
「がん経験者って、ご家族のだれか?」
すぐに返事はきた。
「私やで、私!
言ってなかったけど、私、高校3年の時に皮膚がんになって
手術後、抗がん剤治療もしたんよ。その時は死も覚悟したわ。
幸い今のところ再発してないねんけど。
付き合ってた頃は引かれると思って言わなかってん。」
驚いた。
「もし抗がん剤治療することになったら、
抗がん剤の強い副作用のせいで、とにかく食欲がなくなって吐いてばかりになるから、
栄養のあるものを何時間かけてでも取り込むようにしてあげて!
食べなかったら髪は抜けるし、体力が落ちてがんに負けてしまうから。
私は重箱にひじきや蓮根や南瓜の煮物をいっぱい詰め込んでもらって
一日かけて食べてたから、副作用もそれほどひどくなかったよ。
あっ、それから、病院で出てくる牛乳は栄養の吸収を悪くするから絶対飲まないようにね。」
経験者からのアドバイスはありがたかった。
今まで、がんなんて他人事だと思っていた。
大学4年のときの彼女も付き合ってたときに父親を胃がんで亡くしたが、
まさか自分の身に関係するとは思ってもみなかった。
あのときもっと神経質になって、おかんにも胃の検査をさせとけばよかった。
この10年間、幸せに浸って、最悪な事態を想像もしていなかった自分が腹立たしかった。
ふらふら遊んでいた大学時代を本当に悔やんでならなかった。
とにかくおかんがどんな状況であれ、最善を尽くそうと心に誓った。
いろんな先生に意見を聞いてみよう。
すべての最先端情報をかき集めよう。
数%でも確率があることならすべてやってみよう。
涙が出ないよう目頭に力を入れて、静まり返った夜空を眺めた。
最悪な事態とは裏腹、何事もなかったかのように月はいつも通りきれいに病院を照らしていた。
2008.03/09 [Sun]
人生最悪の日 vol.4 (面会)
ふと時間を今に戻し、顔を上げた。
ほっぺが涙で固まっている。
特急列車は奈良の西大寺に到着しようとしていた。
しかし、なんで天理の病院なんかにしたんやろう?
うちは天理教でもないし、実家からも近くない。
疑問だらけだったが、とにかく天理行急行に乗って先を急いだ。
PM9:00頃、やっと天理駅に到着。
夜の天理は静まり返っていた。
天理教の厳かな雰囲気に包まれていた。
駅前でタクシーを捕まえる。
「よろづ病院の救急病棟にすぐ行ってもらえますか。」
タクシーに乗って、おとんに電話した。
「もうすぐ着くから表に出といて!」
「わかった。」
おかん、どんな顔してるやろう?
つらいやろうな。
泣いてるやろか、それとも寝込んでるやろか。
僕はどんな顔して会えばいいんやろか。
一瞬躊躇したが、立ち止まる暇はなかった。
玄関口でおとんが待っていた。
「おとん、おかんはどこっ?」
「こっちや。」
救急病棟にかけこんだ・・・。
一番奥のベッドでおかんは座っていた。
鼻に吸入器をしていた。
おかんはこっちを向いて涙ぐんだ。
「たかゆき、来てくれたん。」
「おかんっ!!なんで・・・」
「おかん、絶対あきらめたらあかんで!
おかんが死ぬわけないやろ!?
俺が絶対死なさへんから!!」
おかんは「うん、うん」と大きくうなづいた。
おかんの手を握って、肩を寄せたとき、
おかんは堰を切ったように泣き出した。
おかんの手を握ったのは、大人になって初めてだった。
おかんは1分ほど泣いた後、直ぐに泣き止んだ。
その後、少しずつ話をした。
「まだ信じられへんわ。まさかお母さんが胃がんとはなぁ。。。
もうすぐお父さん定年やから、
退職したら温泉でも行ってゆっくり暮らそうって言ってたのに・・・、くやしいわ。」
その声にはいつもの力がなかった。
「年金もらう年になって死ななあかんとは皮肉やなぁ。
何のために今まで一生懸命なぁ。。。くやしいわ。」
おかんは 「くやしい」 を繰り返した。
おかんの気持ちが痛いほど分かった。
おかんは老後の生活を本当に楽しみにしていた。
1年前に仕事を辞めていたが、
仕事を辞めてからのおかんは本当に嬉しそうだった。
たまに電話したとき、おかんに言った。
「おかん、仕事辞めたら毎日暇やろう?」
「お母さん、毎日いろいろ忙しいねんで。 なんや、あんた羨ましいんか?笑)」
羨ましかったら、あんたも今のうちお金いっぱい貯めとくねんで〜。」
あとはおとんの定年を待つだけだった。
老後生活の準備は万端だったのだ。
その矢先の末期がんの宣告。
悪夢としか言いようがなかった。
しばらくして、あねきからメールが入った。
「もう直ぐ着く!」
10時半頃、あねきが救急病棟に駆け込んできた。
おかんは東京から急いで帰ってきたあねきを
両手で力いっぱい抱きしめた。
そして泣きながら何回も何回も謝った。
「みほ、こんなことになってごめんな・・・、ごめんな・・・。」
僕は涙をこらえられなくなって、廊下に飛び出した。
2008.03/02 [Sun]
母との思い出 vol.4 (手紙)
マイホームを購入したものの家に居れる時間はほとんどなかった。
毎日家に着くのは12時過ぎ。
そんな激務が続いていたある日のこと。
帰り道、遠くからマンションの僕の部屋を見ると電気がついていた。
「あれっ? 今日ちゃんと電気消して出たよなぁ。 どろぼうかいなっ・・・?」
急いでエレベータに乗込んで上がった。
部屋に着くと鍵はかかっている。中にも誰もいなかった。
しかし、なんやら良いにおい。
ふとテーブルを見ると手紙が置いてあった。
おかんだっ。
「ママ、今日8時半にマンションに来ました。
10:00 スーパーに夕食の材料買いに行ってきます。
11:30 お昼食べに行ってきます。
12:30 ランチの後、いつもの店でケーキセット食べてきた。
割引券もらったから置いておく。今度使いや。
14:00 洗濯しといたからバルコニーに干しておく。
帰ったら取込みや。
17:00 夕食、蛸と大根の煮物。あと味噌汁作っておいた。
ご飯も炊けてるから帰ったらあたためて食べや。
17:30 ママ帰ります。
日用品買っといたからまた使いや。
毎日しんどいやろうけど、暖かくして身体壊さないようにな。」
散らかった部屋がきれいに掃除されていた。
「ほんまに、仕事辞めてから暇なんかいな。。。」
そう呟きながら、涙が溢れてきた。
おかんに電話しようと携帯を開いた。
12時40分。
もう寝てるか・・・。
「ありがとう」と呟いて、携帯を閉じた。
煮物と味噌汁を暖めて、ご飯をよそり、テレビをつけて夕食にした。
「やっぱうまいわ。」
弁当屋やコンビニの「袋の味」が「お袋の味」に勝てるはずもなかった。
何回もおかわりをして、久しぶりの味をかみしめた。
おかんはこんなふうに何も言わずに時々僕を助けてくれた。
「不言実行」
それがおかんのやり方だった。
普段は気付くことのなかったさり気ない愛情。
それに気付いたとき、
僕は胸が締め付けられるほど両親に愛されていると感じた。
置手紙、取っておいてよかった・・・。
2008.02/25 [Mon]
母との思い出 vol.3 (マイホーム)
会社の寮生活にうんざりした僕は、2年間寮に住んだ後、
高校時代の同級生を誘って大阪でシェアリングすることにした。
神戸までの通勤時間は長くなったが、大阪での暮らしは楽しかった。
ドアを開ければ、大阪のど真ん中。
奈良県生まれの僕には 『どこでもドア』 を手に入れた感覚だった。
大阪での生活に魅了された僕は、いつしか実家に帰ることが少なくなり、
代わりにおとんとおかんが、大阪に来るようになっていた。
当時の僕の2LDKの狭いマンションに来ては、
ゆっくりするスペースもなく、いつも外で食事して帰るだけだった。
あるとき、おかんが言った。
「あんた、もう家買ったら?」
相変わらず、唐突で大胆なおかんの考えだった。
「そや、お前もう家買え!」
二人そろって無茶苦茶なこと言う親だった。
27歳になったばかりの僕には家なんてまだ現実味がなかった。
しかし次の週から、なぜかモデルハウス巡りが始まっていた。
毎週のように約3ヶ月、モデルハウス巡りが続いた。
気付けば、僕ももう洗脳されて買う気満々になっていた。
最初は安いマンションでいいと思っていた。
しかし、いい所を見に行くにつれて夢はでかくなった。
結局、買うことになったのは最初では考えられないほど高額だった。
「頭金は払ったるから、後は自分で頑張れ!」
身が引き締まる思いだった。
引き続き、家具選びが始まった。
「こういう機会に一式そろえとかへんと、一生買えへんからなぁ。」
毎週末、家具を一緒に見に行っては、すべての家具をそろえてくれた。
僕の家具を一頻り揃えると、おとんとおかんは、しょっちゅう横浜に行くようになった。
たまたまあねきに電話したところ、
今度はあねきのモデルハウス巡りが始まっていた。
数ヵ月後、姉夫婦も横浜に家を買ってもらっていた。
後で聞いた話だが、
実はおかんは僕が家を持つことで早く落ち着いてほしかったらしい。
早く落ち着いて家族の幸せを知ってほしかったと。
そのためにずっとお金を貯めていたという。。。
27歳後半になったころ、
僕はシェアリングしていたマンションに別れを告げ、
都島の新居に移り住んだ。
その頃、皮肉にも僕は彼女と別れてしまっていた。。。
2008.02/24 [Sun]
母との思い出 vol.2 (実家)
僕が就職して、あねきが結婚し東京に行き、家族は離れ離れになった。
家族で集まる機会も少なくなったが、その分、親の有難味を身に染みて感じた。
「おかん、今週久しぶりに奈良に帰るわ。」
「そうか、帰ってきぃ〜!」
奈良の郡山駅に着くと、おとんが車で迎えにきてくれていて、
その隣にはいつもおかんが笑って座っていた。
「しんどかったやろぅ。はよ乗り。」
その言葉には家族の癒しがあった。
たまに実家に帰ると外食よりおかんの飯が食べたかった。
この頃の僕はまだ会社の寮にいて、寮の飯にはこりごりだった。
「おかん、今日は飯作ってよ。」
「そうしよか。何がいい?」
「そやなぁ、青梗菜スープと何か炊きものがいいなぁ。」
「はす炊きか大根炊きか?」
「ほなら、はす炊き!」
久しぶりだった。おかんも嬉しそうに作ってくれた。
「あぁ、やっぱりうまいなぁ〜!」
このとき、食事というもので初めて涙が出た。
「残ったのタッパーに入れて持ってかえるわ!」
それから、うだうだ仕事の愚痴を聞いてもらった。
日曜の夜に神戸に帰る準備をしていた。
「はいこれ、お母さん今この洗顔と化粧水使ってるねんけど、これええわ。
あんたの分も買っといたから持って帰り!」
「またこれ、高いんちゃうの?ええのにぃ。」
「あと、頭痛薬と胃薬、ほんで洗剤と柔軟材、あと下着も持って帰り!」
「もう〜、そんなんいっぱいいらんて。向こうで買ってあるから。」
「ええから。持って帰り!」
これでもかというほど、おかんは僕に生活用品を持って帰らせた。
駅まではおとんとおかんが車で送ってくれた。
「ほなら帰るわな!」
車を降りてホームに向かった。
大阪行きの電車に乗ってふと車窓から外を見た。
金網の向こうでおかんが車から降りて手を振ってくれていた。
「神戸と奈良でそんなに遠くもないのに、ほんまに大袈裟やねんから。。。」
そう思いながらもまた涙ぐんだ。
たまには奈良に帰ってこなあかんなぁ〜。
そう実感しながら、奈良を後にした。
大阪に到着。
静けさはほおむられ、また騒々しい現実の世界に引き戻された。
2008.02/24 [Sun]
母との思い出 vol.1 (少年期)
僕が子供の頃、おかんは異常なほど厳しかった。
僕のこの頃の生活は絵に描いたような英才教育だった。
月〜金 進学塾
火 空手
金 書道
土 英会話
日 水泳
あねきもほとんど同じだった。
進学塾、書道、英会話、水泳に加えてピアノと声楽を習っていた。
そしてすべてにおいて、極めるまでやめさせてはくれなかった。
そんなおかんだったが、僕には「夜遊び」と「けんか」だけは存分にさせてくれた。
「やることやったら夜中でもいつでも遊びにいけ。」
だから僕が遊ぶのはいつも夜中だった。
一見矛盾したこんな生活だが、僕は意外と気に入っていた。
そんなおかんだったが、僕が成人になった途端、異様に優しくなった。
おかんが写真をとるとき笑うようになったのもこの頃からだ。
大学時代は受験勉強の反動からか腐るほど遊んだ。
買ってもらった車もボロボロになるほど走りまくった。
帰ってくるのはいつも朝だった。
金遣いも荒く大学生の使う金額ではなかった。
そんな自由極まりない僕を見て、おかんはなぜか満足そうに笑っていた。
どんなことをしても僕の味方でいてくれた。
まぁ、それが親子愛なのかもしれないのだが、
僕はそんなおかんの無償の愛に甘えきっていた。
今考えれば、おかんには自分の趣味などなかったように思う。
おかんの趣味は 『子育て』 そのものだった。
2008.02/21 [Thu]
人生最悪の日 vol.3 (大阪〜奈良)

奈良行の特急席では人目を気にせずに泣けた。
気分を落ち着かせようとしたが全くもって駄目だった。
「胃がん」だなんて。。。
一体、誰が想像しただろう。 一度足りとそれらしい症状はなかった。
おかんはすごい「健康オタク」だった。
毎朝6時には起床し、ラジオ体操。 しかも第2まで覚えている。
ヨーグルトを毎朝食べ、野菜や果物ジュースも欠かすことはなかった。
酒も飲まないし、タバコももちろん吸わない。
いつも身体を暖かくし、睡眠も十分にとっていた。
食物についても値段は高くても上質なものを買っていた。
中国産などは論外だった。
そんな母が「胃がん」でしかも末期まで症状が出なかったなんて・・・。
主治医に会って、早く話を聞きたかった。
おとんの話ではこうだ。
胃カメラの検査が10分ほどで終わったから、異常なしと思った。
検査が終わってすぐに食べてたし。
胃がんやったら、検査は長引くし、普通食べれないやろう。
だから、検査結果は良好だと思っていたというのだ。
でも、主治医の話を聞くと全く逆で、
4cmの胃がんが見つかり、肺にまで転移してるから何もできなかったとのことだった。
ステージ4。
携帯で調べてみた。
5年生存率、7%。
絶望的だった。
あねきからはひっきりなしにメールが入った。
「ママは末期の胃がんっていうことを知ってるん?」
「うん、おとんと一緒に主治医から聞いたらしい。」
「手術はできないの?」
「転移してるからできへんらしい。なんでや?主治医に聞こう。」
「絶対大丈夫。化学療法もあるし。」
「そんなん、気休めやろう。 今どこらへん?」
「まだ全然進んでない。ほんまどこ走っとんねん!?」
早くおかんに会いたかった。
どんな顔してるやろう。さぞかし落ち込んでるやろう。
心配で仕方なかった。
電車の窓に映る僕の顔。
おかんと瓜二つだった。 おかんの遺伝子そのものだ。
車窓から見慣れた奈良までの景色を眺めながら、おかんとの日々を思い返していた。

「真友」かぁ。いい言葉やね。
うちの父が闘病中、私は誰かに父の病気のことを打ち明けると本当にそれが現実なんやって突きつけられる恐怖と、あとたかちゃんの知ってる私の親友たちに助けてもらうとピーンと張ってた緊張の糸が一瞬で切れてボロボロになるのが分かってたからほとんど誰にも言えなかったの。
でもモンモンからママが入院したってメールもらったとき、そしてその後みんなが彼女を支えてるのを知ったとき自分は間違ってたなぁと思った。
泣き崩れたとしてもきっと彼女たちは一緒に泣いて、そしてその後一緒に闘ってくれたに違いない。
あの辛い数ヶ月、それはどんだけの励みになったやろうって今となっては悔やまれる・・。
たかちゃんが言うようにこういうときに友達の真価が分かるよね。
幼馴染、思いが実らなかったお友達のメッセージが胸に響きます。